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33 アカメ②

  釣場は自宅から車で10分。水族館から15分余りの所にあった。仕事帰りに1時間。夕食後に2時間。5月から10月まではこれが日課になっていた。水族館の水槽トラックで行く事もあったが、自分の車には釣具だけでなく、50ℓほどの手製の移動用水槽が積みっぱなし。家には200ℓほどの水槽をセットし、エサのハゼやテナガエビを常備し、アカメが釣れた時はしばらく養生させる用意を整えてあった。夕食後長男(3才)を寝かせつける為に車に積んでひと回り。釣場で相棒に様子を聞いて、もうひと回り。それから2時間(9時~11時)。毎晩通いとうして30日間、1尾も釣れなかった事もあったし、10分間ほどの間に50から70cmの大物を5尾釣り上げたこともあった。不況で製鉄所が閉鎖になるまでの10年近く、私と“釣キチ”の相棒とのアカメ三昧は続いた。

  私が1尾釣ると相棒はそれよりも大きいのを釣るまで、又は2尾釣るまで、又は夜明けの誰もいない所を狙っての抜け駆け。相棒は文字通りの“釣りキチ”だったのである。  
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32 アカメ①

  南四国と九州の一部に限定された、せまい生息域に住む特異な生態の魚で、ルビーのような赤い目が魅力的。しかも大型になるとのことで、学生時代から興味を持っていた魚の一つであった。桂浜沖にも居るらしく、釣り上げようとしたチヌを赤い目の巨大な魚に横取りされた、とか素潜り漁の人が五尺(1.5m)余り・10貫(34kg)ほどのアカメを市場に持ち込んで話題になっていた、とか近くの藻場で数センチの稚魚が獲れる。などの情報を集める中で、特上の釣場があることが分かった。浦戸湾の中部にある製鉄所の温排水にアカメが集まるとのこと。一晩に10尾余り釣れることもあるとのことで、“釣キチ”の相棒と共に飛びついた。四万十川のアカメが全国的に有名になる数年前のことである(昭和51年夏)

  温排水に集まるアカメは40~80cmが多いが、1m近い大物を釣り落とすのを目撃したこともある。高知市の浦戸湾は四万十川以上のアカメの宝庫なのである。

  

31 注文 

  水族館で飼育するお魚達には当然のことだが飼育適温があり、上と下に限界水温がある。南方系の魚は、冬場の低水温。北方系や深海系は、夏場の高温に耐えられない。チョウチョウウオなどは、電気ヒーターで加温出来るが、大型のサメやエイ類を扱う場合は、それなりの温度コントロール設備が必要になる。開放式を主とする桂浜では、経費を考えると、大型濾過循環設備は望めない。新築計画が具体化する中、私の希望と予算に大きな開きがあることが分かってきた。そこで、これだけは絶対譲れない設備として“マンボウ用の冷房水槽”を注文しておくことにした。(昭和57年頃)

  私の注文は100トンの冷房水槽だったが、実現したのは50トン水槽だった。

30 限界

  5年目、21頭目のマンボウは自己記録を224日まで更新し7月24日に死亡した。今回は死因らしいものが見当らない。125日の時は6月末、前年の166日間は7月21日だった。かすかな予感と共に、私の最も恐れていたことを確認するために、鴨川シーワールドに電話する。やっぱりそうか、あちらは冷房水槽で飼育していた。「20℃ぐらいが上限だと思いますね」との答え。桂浜の7月末の水温は23~24℃。上限をはるかに超えた水温の中を頑張って生きてくれたことになる。8月末には27℃近くまで上るので、終年飼育が絶望であることを確認し、力がぬけてしまったことを記憶している。開放式で飼育している水族館の“限界”を思い知らされた瞬間だった。(昭和54年7月25日)

  アンコウ・マダラトビエイなど、開放式(かけ流し)では無理な魚も多いことは知っていたが、マンボウが冷水系の魚とは思っていなかったので、これは大変ショックだったのである。

29 ウキをつけた魚 

  125日間の世界記録を更新したのは4年後のこと。このマンボウはバランスが悪く泳ぎが不安定で、底に沈むと起きあがれなくなるので、入館10日目からはウキをつけていた。130日目までの飼育日数の大半は、円筒型の発泡スチロールを釣鉤で背中に引っ掛けられた状態で泳いでいた。背肉は1週間ほどで切れるので、少しずらせて引っ掛ける。しまいには、背中にミシンをかけたような傷がついた。ウキをつけたまま125日の飼育記録更新の日を迎え、随分悩んだ。“こんな状態で飼育と云えるのか??”しかし「体も太っているし体長は10cm余り伸びているんだから…」との同僚の声に押されてマスコミに発表。全国版のテレビにも出演した。結局166日まで伸ばしたが、その1ヵ月後鴨川シーワールドに追い抜かれ、飼育記録は私の手の届かない所へ行ってしまうのである。(昭和53年7月)

  この時は随分悩んだが、その後“愛犬の車椅子”とか“イルカの義腕”・“キリンの義足”などが話題になった時、私の“マンボウのウキ”はその先駆けだったのだと納得したのである。

28 高嶺の花(ヒメイトマキエイ)

  高貴な女性、例えば日本中の男性が憧れる吉永小百合のスカートが、目の前でヒラリとめくれたとしたら・・・。私は室戸の沖で、これに匹敵するような体験をした。ある秋の午後、きれいに澄み渡った青空の下。大敷網の中を優雅に泳ぐ濃紺の魚。ユッタリと反転した時、チラリと見えた純白の腹面・・・。身震いがするような、その時の光景は今でも鮮明に浮んでくる。以後この魚を運搬・飼育する方法を繰り返し繰り返し検討した。しかし、どうしても具体的な所まで進まない。私にとってヒメイトマキエイは手の届かない高嶺の花。永遠の聖女なのである。(昭和50年秋)

  最近ではもっと大型のオニイトマキエイ(マンタ)を飼育する水族館もあるが、昭和の終わる頃まではイトマキエイ類は各水族館にとって聖域だったと思っている。

27 マダラトビエイ

  ゲイラカイトと云う外国製の凧が流行しはじめたころのこと。そっくりの魚が沿岸のバッチ網で獲れることを知り、人気者になりそうな気がして、当時としては破格の「1尾3千円でお願いします」と漁協に注文を出した。その年は6尾ほど入館した。網ズレはひどかったが皮膚が強い魚で半数は回復した。しかし餌にはつかず、1~2ヶ月の命だった。飼育を試みて3年目のこと、ある偶然で餌付けに成功した。「11月のアサリはヤセてるので、おいしくない。餌にでもやって」と大量のアサリをもらった時のこと。蓄養場所に困り、網袋のままトビエイのプールへ放り込んでおいたのである。ふと見ると袋の上に止まって食べたそうな顔をしている。あわててバラ撒いてやると、1つ1つ拾ってバリバリ噛み割って食べ始めた。“バンザイ!”と大喜び。しかし、この魚には別の難題が待ちかまえていたのである。(昭和53年11月)

  アンコウとは逆にトビエイの仲間は南方系で、水温が18℃を切ると死んでしまう。アサリをモリモリ食べていても、水温が16℃まで下がる三月が乗り切れないのである。

26 アンコウ

  ヌルヌルの体は一見丈夫そうに見えるが、実際はかなりデリケート。たいてい採取後1週間から10日でアゴと尾部がハレあがり、そのまま死んでしまう。慎重にハレ物にさわるように大切に扱うようにしてから、やっと望みがありそうな個体にめぐりあった。2週間たってもハレが出てこないし、パニックもおこさない。細い竹竿の先にフックを付けて、目の前を小魚が泳いでいるように動かせてみる。ボンヤリ、私のほうを眺めているように見えた目が、ほんの少し動く“エサを見たぞ”と思い、繰り返し繰り返し動かせてみたがダメ。それから3日目“ついにやった!ルアーが動いた!と思った瞬間にバコッとフックもろとも呑み込んだ!”“これはすごい!頭上の擬餌はルアーフィッシングそのもの!小魚をさそう動きは見事!”とその日の興奮した記述が日記に残っている。これは新聞・テレビを呼べるぞと楽しみにしていたら、春の大雨による水質の悪化で急死した(昭和50年5月16日)。その後、数尾の餌付けに成功したが、いずれも水温が上限を超えて、短命に終わってしまっている。

  アンコウは水温18℃以上では生きてけないようなので、開放式(かけ流し)の当館では二月から五月の間だけしか飼育できない。

25 人命救助(成功)

  翌日また「流された」とのこと。見ると沖で泳いでいる。「バカめ!」と思って引き返しかけると「『助けて』と云っている」とのこと。波は昨日の半分くらいしかないが、まだまだ大波だった。大波の浜に上陸するには、それなりの要領がいる。その高校生は危険を知らないらしく、岩場に上ろうとしているようだった。浮輪を持たせ、波が少しでも小さくなる深場をさがして移動し始めた時“新ちゃん”が来てくれた。この人は“桂浜の主”と云われる人でそれまでに10人ほど救助した経験があるとのこと。3人でサーフィンのように波の頭に乗って浜へすべり上った。その時「高谷君、わしも歳やから、これからはおまんに任せたよ」と云われた。(昭和53年8月16日)それから30年近くなるが、その間に小学生の男の子(平成4年8月)6歳の女の子(平成7年5月28日)の救助に成功している。

  6歳女の子は浜へ引き上げた時呼吸をしてないようだったので、マウスツーマウスを二回!すぐに目を開けた。“栞ちゃん”のファーストキッスはロリコンの私が頂きました。

24 人命救助(失敗)

  はるか沖合に大きい台風がいる時、桂浜には突然大波が襲い、観光客が流される事故が起こることがあった。その日、浜はお盆の帰省客でにぎわっていた。「女の子が波にさらわれた」との声に遊泳用の浮輪を持って走る。助けに入った人も流されたとのこと。女の子は見えなかったが浮いている人が見えた。波合いを見て泳ぎ出す。その人の所まで約50m。しかしすでに呼吸停止、口から泡を吹いていた。体に浮輪を通し、浜を振り返る。とても帰れそうにない。崩れながら迫る波頭をやり過すと深い谷に入る。見えるのはそそり立つ波の背と青い空。足の裏がむずむずして、生きた心地ではない。一緒にいるのは半死体、この場に来てしまったことを後悔する。台風の波は沖合500mまで行けば静かになることは知っていたので、自分を励ましながら沖へ。数時間にも感じたが、実際は30分余りで保安庁の船にひろわれた。しかしその人は助からず、女の子は数日後、遺体で収容された。(昭和53年8月15日)

  波遊びは面白い。ギャンブルにも通じる。最初は遠くから見ているが少しずつ近寄り、自分も参加。死神は狙っている。「ここまでおいで…」そして突然その子に大波をかぶせて引きずり込む。

23 命の水のアキレス腱

  地下浸透海水には、宿命的な欠陥がある。それは大雨!。1日に100㎜余りまでの雨は平気だが200㎜を越えるような雨が降ると、地下浸透海水の濃度を下げてしまう。昭和51年9月!台風17号の大雨は、時間雨量90㎜を最高に1日量500㎜。6日間で1,300㎜余り。海水井戸を完全な真水に変えてしまった。魚類の80%が死亡、イルカも体がふやけてしまった。井戸水を諦め、堤防に仮設ポンプを置いて、ドロドロの海水を汲み上げ、イルカを助けるのが精一杯だった。もちろん半月余りの臨時休業を余儀なくされた。200年に1度と云われる大雨で、高知市には非常事態宣言まで出されたので、記憶されてる方も多いと思う。あんな大雨はもう二度とはあるまいが、200㎜を越す集中豪雨があると、塩分濃度に敏感な無脊椎動物は危機にさらされる。さらに300㎜以上になると魚類も心配になってくる。開放式で飼育している当館にとって、集中豪雨こそがアキレス腱なのである。

  当時の専売公社で12トンの食塩を買い込んで2トントラックに4トンづつ積み込んでフラフラしながら3往復した記憶は消えることはない。それでも生き残った魚は、チヌやボラなど塩分を気にしないごく一部の魚だけだった。

22 桂浜の命

  水族館で使用される海水は普通、海岸に取水施設を作りポンプで吸い上げている。台風で設備が壊されたり、ニゴリが出たり、カキ等の生物が配管につまったりと、いろいろ問題がある。館によっては沖合数十kmまで出かけて、黒潮を汲んで来る所もある。桂浜では砂浜に井戸を掘り、地下浸透海水を汲み上げている。最も古い井戸は、昭和4年頃から現在まで、毎分1tの海水を吐き出し続けている。台風の大波にも濁らず、プランクトンどころか大腸菌まで濾過されて全くいない。夏は26℃・冬は16℃と安定した水温なので、土佐湾の魚の大部分はOK。この井戸水が“桂浜水族館の命”なのである。

  平成の頃に多くの弱小水族館が消えていった中、桂浜水族館が現存するのは、この地下浸透海水のおかげ。この海水のある限り、桂浜水族館は生き残ってゆくと私は思っている。

21 ジムニー

  桂浜の砂浜を自由に走れる、ジムニーと云う軽トラック(中古車)買ってもらった。海砂を運ぶ作業に使ったので、サビてボロボロ。フロントガラスがヒビ割れたせいもあって1年余りで、廃車登録になってしまった。しかしそれからが、この車の本領発揮であった。台風が持ち込んだ砂を館内から運び出す作業に、どうしても必要な車だったのである。荷台が抜けたので、コンパネで作り直し。ボンネットが外れたのは、しばらくロープで止めていたが、トタン板で囲った。運転席は、板の上に発泡スチロールを置いた。ガソリンタンクの穴は、何度も接着剤で埋めたが、ついに諦めて一斗カンを助手席に置いてサイフォンでキャブレターへつないだ。きわめつけはエンジンスターター。プーリーを外し木製のドラムを取り付け、ロープをかけて手動でエンジンを始動させるようにした。廃車から2年余り、台風10号(昭和45年)が持ち込んだ海砂をほぼ出し終えた頃、頑張り過ぎたエンジンが焼き付いた。タイヤとハンドル・車軸とエンジン以外はエコおやじ(当時はお兄さん)が作った、木製の車に改造されていたのである。(昭和49年12月)

 上記の他にも、木製の荷台には積み込んだ砂を下ろすためのダンプ機能(手動)も取り付けられていた。

20 釣られた飼育員

  若さに任せて、朝食は抜き昼はカレー夜はインスタントメンかパンで済ませる。大工に植木屋などの、重労働のあとに徹夜の釣り。かなり乱れた生活が続き、ある日ついにひどいヘルペスが、口の周りに出てしまった。見かねた下宿のおばさん(後の義母)が助け船を出してくれた。間借りの約束だったが「体を壊すから、これからは朝食を作ってあげます」。これが撒き餌であったことに気付くのは、それから2年ほどあとのことになる。失恋から立ち直り、イルカやマンボウと出会って、飼育員としてやっていく自信が生まれはじめたころ、鉤のついた餌がぶらさがって来た。撒き餌の効果もあって、私はためらわずに喰い付ついてしまった。それが今の女房である。“親を見れば娘は見なくても大丈夫”と母が話していたことも参考にはなっている。(昭和49年11月16日)

  “親を見れば…”を信じて、ためらわずに喰い付いてしまったことを後悔したくなくてずっと我慢してきたが、それが間違いであることに気づいた頃には、もう引き返せなくなってしまっていた。

19 腸閉塞

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  写真 (中央筆者・当時28歳) イカに似た味だった。

  小学生向けの月刊誌から「マンボウと一緒に泳いでいる写真を撮らせて欲しい」との申し込みがあり、私とカメラマンがマンボウプールに入ったのは、飼育122日目のことだった。しかしその日から急に調子が狂い、世界記録は125日でストップした。死体を恩師の研究室(高知大学農学部)へ運んで解剖。供養のため立合人全員が一口づつ食べてやることにした。死因は腸閉塞。エサに与えたキビナゴの骨が未消化の状態でダンゴ状につまっていた。私が泳いだ時のショックが、引き金になったに違いないと思い、大いに反省した。原因がもっと深い所にあったのを知るには、それから5年の歳月が必要だった。(昭和49年6月27日)

  マンボウは水温20度Ç以下の環境が必要な深海性の魚であり、当時の桂浜の水温は23度Ç。生息限界を越えていたせいだったのである。

18 世界記録

  昭和49年2月22日。85cm30kgのマンボウを搬入し“まさこ(忘れられない名前)”と名付けた。プールに入れて3日目、餌のアサリの身を流し込むように口に入れてやると、そのまま食べてしまった。“餌付けの難しい魚”と聞いていたので、全くの拍子ぬけ。それから毎日、ほんの少しの餌を食べ、少し浮きぎみでフラフラと泳ぐ。一週間後には運んだ時の傷が広がり、15日目頃には、背ビレの棘が露出するほど、ビランがひどくなってきた。あと数日で背ビレが折れるかも?それまでの命と思っていた。ところがそのまま頑張って、30日目のこと、差し出した餌に反応して、追っかけて吸い込んだ。その日を境に、傷はどんどん良くなり、泳ぎが安定し、体も太ってきた。大目標だった48日(それまでの飼育記録)をまたたく間にクリアした。“飼育の難しい魚”との情報からは、信じられない結果だった。名前が良かったのか運が良かっただけなのか、桂浜だけの特別な条件があったのか?とにかく“世界新記録”と云うことで、新聞、テレビの取材が次々と舞い込み、私は有頂天だった。(昭和49年5月)

  鴨川シーワールド・油壺・串本海中公園など多くの水族館が長期飼育に苦心していた中で、私の“まさこ”は難なく飼育記録を更新していったのである。

17 マンボウとの出合い

 大敷網漁の船に同乗させてもらったのは、イルカの給餌に通い始めて間もなくのことだった。狭められてゆく網の中、季節外れのシイラの群の下に、白っぽいユッタリ泳ぐ魚が見える。サメかな?と思いながらよく見ると、丸い変わった形の魚。これがマンボウとの出合いだった。“巨大な体で太平洋上に浮いている”とか“マグロ延縄にかかることがある”などの知識はあったが、図鑑でしか見ることが出来ない、夢の魚だと思っていた。それが目の前に引き上げられた。すぐさま漁師さん達から情報収集。「20kぐらいのが獲れる事もある」「漁期は12月から4月頃まで」「多い日には4~5尾獲れるかな?」など、飼育の可能性を示す答えが返ってきた。捕獲・輸送・飼育と次々にイメージし、問題点を捜し対策を考えながらの帰り道。“イルカを運んだら次はマンボウだ”興奮のあまり、室戸から高知市までの2時間が、一瞬で過ぎ去ったことを記憶している(昭和48年12月)

  間もなく半世紀を迎えるが、初めてマンボウを見た日のことは、今もはっきり覚えている。

16 300円

  昭和48年頃、室戸沖の大型定置網(大敷網)に、冬場バンドウイルカやゴンドウクジラが入網することがあった。解体業者がいて、三千円から五千円程度で引き取って干し肉を作っていたらしい。その日はたまたま業者が不在で、仲買人が値を付け渋り、冗談半分に“300円”を示した。せり人が怒り「それなら売らずに逃してやる」と云って、まだ息のあった3頭を港の中へ放り込んだ。三津漁港は奥が深くて出入口はせまく、その上曲ってる。イルカ達は出口を見つけられずに、船溜りに住みついてしまったのである。解体される予定だったので、尾ビレにロープをかけてクレーンで吊り上げられ、市場のコンクリートの上に2時間以上も放置されるなど、非常に厳しい常条件の中を生き抜いてきた。幸運と偶然の組み合わせの上に、私の運命は重なることになる。以後33年余り、魚類採集の最重要拠点として、三津漁港通いは現在も続いている。私の人生はこの“300円のイルカ”によって決定したと云える。私は今も、室戸へ足を向けては眠らない。

  この日仲買が3000円の値をつけていたら、三津子と名付けされて10年近く(3516日間)桂浜で暮らすこともなく、その日のうちに干し肉になっていた。そして私も、桂浜に生涯をささげていたかどうかは全くわからなかった、と思っているのである。

15 イルカ

  “室戸市の三津漁港にイルカが3頭住みついた”との新聞記事を見て、即日走った。ちょうど漁協の人が餌を投げている所だった。水中で餌を追ってるのを確認してから「水族館に下さい」と声をかけた。「保育所の子供たちが名前をつけて可愛がってるのでダメ」とのこと。休みの度に3度ほど見に行って、1日中眺め、漁協の人が出て来る度に「水族館に下さい」を繰り返した。するとある日突然「やるから来い」との電話。3頭のうち2頭が急死。見物客のイタズラらしかった。
 それから毎日、朝5時に下宿を出て7時に室戸で餌を与え、9時半から3時まで桂浜で仕事。また室戸まで走って夕方の餌。買ったばかりの中古車は、28日間9,500km走らされ音をあげた。休日なしの15時間労働だったが、充実していた。餌を手渡しで食べさせて、体に触れるまでに慣れたイルカは“三津子”と名付けられ、予定通りお正月前に入館したのである。(昭和48年12月23日)

 三津大敷組合の現在の組合長は、当時は漁協の職員で私が「イルカをください」と初めて声をかけた人。この人との付き合いも、もう間もなく半世紀!。

14 白点病

  白点病は発見が遅れると、水槽内の魚が全滅することもある恐ろしい病気である。それゆえよく研究され、原因虫の生活史を利用した対策が確立されている。当時の桂浜では“水槽洗浄”で対応していた。発生した水槽の魚を全部移動し、逆性石鹸で洗っていた。大変な手間なので、何とかしたいと思っていた。原因虫は銅イオンに弱いが、魚の体に着いている時は、バリヤーに守られている。しかし約一週間後に卵を産むと寿命が尽きる。生まれた子が魚体に泳ぎ付くまでは、バリヤーがないので、銅イオン(硫酸銅水溶液)で即死と授業で習った。しかし桂浜の水槽は開放式で、常時新しい海水が流入していた。館長も銅イオンのことは知っていたが、すぐ流れてしまって効き目がなかったらしい。そこで私は“点滴”を試みた。海水の流入量とバランスを取って、1PPMの銅イオンを維持するように流し続けた。これがある程度うまくいってから、館長は少しづつ私にも魚の世話をまかせるようになってきたのである。(昭和48年夏)

  70リットルのバケツの底から小さなコックで点滴をするが、コックはすぐに目詰まりを起こす。朝晩掃除してもうまく流れてくれず泊まり込みの徹夜や、掃除のためだけに真夜中に出勤したりしたこともあった。現在も白点病には、この装置の進化型が活躍しているのである。
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