552 エコおやじの病歴⑭聴力

ソウシハギ
  今のところ生活に支障はないが、私の右耳は高音域が聞こえにくい。40代の頃から体温計などの8000ヘルツの『ピッ』の音はほとんど聞こえないことはわかっていた。これは中学生の時の中耳炎で、鼓膜に穴を開ける手術を受けたせいだと思っていた。しかしある時このブログを書いていて突然思い出した。悪友のケンちゃん(405バードウオッチング⑤チチリン)と鉄砲作りをしていた時のことである。運動会などで使うスタートピストルの紙火薬をむしって集め、銃身に見立てたコウモリ傘の柄に詰め込んでいて暴発させてしまったことがあった。銃口の上にあった右手小指は火傷でジンジン。音を聞きつけて「どうした?」と声をかけてきた兄には「何でもない」とごまかした。しかし右耳はワンワンひびいて何も聞こえなかったのを親に怒られると思い黙っていた。幸い翌日には聞こえるようになったが、その時からおそらく高音域に障害は出ていたと思われる。70歳近くなってからは少しづつ進行している気配もかんじてはいるのである。
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551 エコおやじの病歴⑬歯科8020

セミホウボウ2
  人間の歯は、成人では32本が基本ではあるが、親知らずの4本については歪んだりうまく生えて来なかったりすることも多いらしい。私の親知らずも斜めに生えて、咀嚼には役立たずすぐに虫歯にになってしまい、30歳を過ぎる頃までにはすべて抜歯してしまった。歯科には“8020運動”というのがある。『80歳でも20本の歯が残っているように頑張りましょう』とのことだが、現在私の歯は26.5本。親知らずのほかには臼歯を一本抜いた他「臼歯が虫歯で半分に割れているが、半分は根がしっかりしているようなので隣の歯とブリッジをかけましょう」と。石田歯科では“できるだけ抜かない治療”を心がけてくれている。80歳まであと八年、なんとか頑張りたいと思っているのである。

550 エコおやじの病歴⑫五十肩

スギ
  四十代半ば頃のこと、右肩が上がらなくなってきた。手のひらを上向きにすると難なく上がるが、下向きの状態だと水平より上には痛くて上がらない。整形外科で「五十肩ですね」と言われ、電気治療に通うように言われた。ところがその電気が痛い!。帰って風呂に入ってよく見ると、肩の周りは出血こそはないものの傷だらけ。電気による火傷である。「あんなやぶ医者!」と女房に言うと「これを試してみる?」と新聞記事を持ってきた。ゴム紐でインナーマッスルを鍛える方法である。一週間ゴム紐を引っ張り続けると痛みが和らぎ、一ヶ月ほどで完治した。その数年後左肩も同じ症状になったが、同じくゴム紐で完治したのである。

549 エコおやじの病歴⑪高血圧症?

シイラ2
  初めて“血圧”なるものをはかったのは、高校3年生の時の就職面接(335桂浜への道⑦奇跡)の後の身体検査。「160の90なので18歳にしてはかなりの高血圧ですね」と言われた。以来私は“高血圧症”と思い込んでいた。しかし家庭用の血圧計が普及し始めた20年余り前、高血圧症で薬を飲んでいる女房が「毎日計る」と買ってきたので私もこわごわ計ってみた。数値は105の75だったので「この機械はおかしい」と言ったが、女房は140の90ぐらいと出る。何度計っても私は100を少しこえるだけ!。昆布やジャコなど、塩分いっぱいのものを食べ続けている私は、71歳の現在も120の80ぐらい。ただし私は“白衣高血圧症”のようで、病院ゃ健診で看護婦さんに計って貰うと140の90と出て「高血圧症ですね」と言われる。ゆわゆる“隠れ高血圧症”らしいのである。

548 エコおやじの病歴⑩インフルエンザ

サバフグ
  私が初めてインフルエンザにかかったのは、高校卒業直前のこと。高知大学の入学試験を済ませて帰った翌日、悪寒に体が震えそのまま三日間ねこんだ。受験によってエネルギーを使い果たしたために取付かれたのである。次回は平成八年(50歳)二月。私の体重と同じ62kgのマンボウを搬入した時のこと。水槽トラックからはチェーンクレーンで降ろしたが、飼育水槽に入れるには抱きかかえて20m走りさらに階段を2.5m。体力を極限まで使い果たした私は、翌日から三日間39度の熱で寝込むことになった。インフルエンザはこの二回だけ。大阪に居た時、同室の男が寝込んだが私には移らなかった。どうやら私の免疫力は、非常時以外はインフルエンザには負けないようなのではある。

547 エコおやじの病歴⑨風邪

コノシロ
  幼児期の頃のことはわからないが、小・中・高校では風邪引きで学校を休んだ覚えはない。学生時代には不健康な生活もしていたので、友人達に迷惑をかけたことは記憶の隅に残っている。しかし26歳で桂浜に来て以来、45年間風邪を引いたことがないのが私の自慢なのである。桂浜では5月始めから11月末まで、裸でプール洗いを続けていたので、冷たい海水に皮膚が鍛えられたおかげなのに違いないと確信している。しかし一昨年の秋からプール洗いを卒業したので、そろそろ免疫力が弱ってきている頃。この冬あたりからは、用心しなければならないと思い始めているところである。

546 エコおやじの病歴⑧膀胱炎

ケサガケベラ
  昭和60年6月のことである。突然39度以上の高熱に襲われた。近所の内科へ行くと「うちではちょっと…」と市民病院への紹介状を持たされた。厄介な病気かも知れないと心配しながら、フラフラする体でタクシーに。採尿検査の結果で「濁りが酷いので膀胱炎でしょう。最近ひどく寒い経験をしませんでしたか」と聞かれた。その二日前の夜明け、薄着で震えながら四時間余りアカメ釣りをしたことがあった。抗生剤を処方されると翌日には熱が下がった。以後濁りを伴う排尿痛と発熱を何回か経験したが、その度にイルカ用に備蓄してあったクロマイやゲンタマイシンをこっそり流用して、膀胱炎は自分で治しているのである。

545 エコおやじの病歴⑦五月病

クサアジ
  私が39歳、昭和60年5月10日のことである。イルカプールのテントの不具合があって鉄骨の上に登った時に突然、終わりのないクシャミが始まった。鼻水も止まらず、下に降りても発作が治まらないのでそのまま病院へ。「アレルギーですね」と薬を貰うと一発で治った。翌年やはり5月にクシャミの発作。同じ薬が効かず、一週間ほど飲む必要があった。その次の年は4月に始まり6月まで。そしてついに2月のスギ花粉にも反応するようになり、イネやブタクサ属のヨモギ・セイタカアワダチソウのほかハウスダストにも反応。2月から10月まで抗ヒスタミン薬が手放せない状態が20年以上続いた。“五月病”は“年中アレルギー”になってしまったのである。しかし70歳に近くなってからは、反応が軽くなりつつあるような気配もある。

544 エコおやじの病歴⑥痔

キダイ
  結婚して間もなくの、昭和49年12月3日のことである。初冬の冷え込んだ夜、冷たいテトラポットに座り徹夜でゲンナイ(クロホシイシモチ)釣りをした日(71釣り採集⑮クロホシイシモチ)、酷い痔(脱肛)を発症した。新婚の女房にも言えず病院へも行かず、オロナイン軟膏を塗って押し込んだ。しかしすぐに飛び出してくるので、1日に何回も押し込むことを繰り返し、三ヶ月ほどかかってなんとか治めることができた。ただしその後も排便に力が入り過ぎると悪化を繰り返し、ほぼ完治には一年ほどかかった。それから20年以上忘れていたが、50歳ちかくなってからは再発の気配。年に1~2度オロナインのお世話になって、酷くなる前に治めている。大村崑のコマーシャルで有名なオロナインは、私の出身地の鳴門市が発祥の地。私はこの薬に救われているのである。

543 エコおやじの病歴⑤ヘルペス

カガミダイ
  唇の周りに水疱ができるヘルペスは、私の持病といえる。小・中学生の頃は口角炎。高校生からは口内炎やヘルペスに悩まされている。口角炎・口内炎・口唇ヘルペスは、それぞれ原因が違うらしいが、いずれも体調不良やストレスが高まった時に発症する。唇の一部(主に上唇)がヒリヒリし始めると、翌日にはそのあたりに水疱ができる。その翌日にはそれが黒いカサブタになる。そのカサブタが取れるまでの3~4日間。ふだんでも見苦しい顔がさらにひどくなるので、イヤでイヤでたまらなかった。さらに50歳近くなってからは、水疱が鼻の穴のあたりにできることが多くなってきた。それがカサブタになると、鼻くそがはみ出しているように見えて、さらに見苦しくて悩ましい。少ない年でも年に2~3回、多い時は10回以上発症したこともあったが、70歳近くなってからは発症が少なくなってきているようではある。

542 エコおやじの病歴④ギックリ腰

オアカムロ
  中学三年の夏休み、友人達と海水浴にいった時のこと。砂浜で大きな石を持ち上げようとして、腰にピリッと痛みが走り、その場で動けなくなった。日に焼けた熱い砂で温めると少し楽になったので、夕方まで寝転んでいたら、なんとか歩けるようになった。次に発症したのは大学の水泳部のプールでふざけていてピリッ。以後30年ほど完全に忘れていたが、50歳を迎えた頃から二年に一回程度のペースで発症するようになっている。いずれも2~3日で治っているのだが、寒い時は要注意のようなのである。

541 エコおやじの病歴③関節炎 

エビスダイ2
  中学三年生の時、水泳部の平泳ぎの組は三人共ヒザ関節炎に悩まされていた。平泳ぎはヒザをひねるので、負担がかかるせいだと思う。私は比較的軽く、アリナミンを飲むと一週間ほどで治っていた。高校・大学でも時々痛みだしアリナミンのお世話になった。しかし大学卒業時の三月、寮の部屋のかたずけのため寒い中を四階からゴミ焼場まで、何度も往復しているうちに酷く痛めてしまった。翌々日、就職した大阪の魚市場では、階段が下りられなくなっていた。平地を歩くのは普通に歩けたが、二階の事務所から降りるには、手摺に捕まって一歩一歩しか歩けなかった。しかしこの時も病院へは行かず、アリナミンで済ませたのである。以後忘れた頃に時々痛むことがあるが、大阪の時のように酷くはならずアリナミンでごまかしているのである。

540 エコおやじの病歴②腎盂炎

ウルメイワシ
  小学校三年生、9歳の時高熱が出た。腎盂炎との診断で学校を休んだ。兄達は毎年“皆勤賞”を自慢していたので、私は休みたくなかったが、強制的に寝かされた。熱が高かった割には、体にはあまりダメージはなく、布団の中で漫画を見るだけ(我が家にテレビが入ったのは一年後)の退屈な時間だった。熱が下がるまでの4日間学校を休んでしまい、精勤賞もダメになって悔しい思いをしたことも覚えている。しかし高熱の病人ということで、兄弟達とは別メニューの特別食を作ってもらい、病気になるのもいいもんだと思った記憶も残っているのである。

539 エコおやじの病歴①破傷風

イッテンアカタチ
  多分4歳の晩秋のことだったと思う。二つ年上のガキ大将のミーちゃん(314鳥かごより⑬ミーチャン)の采配で、数人が集まり度々かけっこをしていた。私はいつもビリだったが、その時だけは誰かに勝てそうだったので、セーターを脱いで腕まくりをして思い切り頑張ったら、ゴール直前でつまづいて倒れ左肘を大きく擦りむいた。泥が付いたが出血は少しだったのでそのまま手当もしなかった。その日は何ともなかったが、翌日の夕方には高熱が出た。母に背負われて夜道を近所の診療所へ。肘の傷のカサブタをピンセットでガリガリ剥がされた時の痛さ!。腕を押さえた看護婦さんが『鬼』に見えた記憶は今も残る。医師は「破傷風かも知れないのでペニシリンを打っておくから」と、お尻に太い注射をされた。65年以上前の経験だが、今も忘れていないのである。

538 エコおやじの病歴(序)

アイゴ2
  “エコおやじの履歴書”は11年も書き続けているので、さすがにネタ切れで困り果てている。「もう終了にしたい」と言う私をイラスト係が「ダメ!」と言って許してくれない。アイデアが浮かばず、日記帳や過去のノートを引っ張り出して七転八倒!。締切に追い立てられる流行作家もこんな気分だろうと想像する。そして今回やっと捻り出したのが“病歴”である。健康だけが取り柄で、若い娘から“サイボーグ”などと呼ばれたこともある私だが、やはり71年の歳月を振り返るとイロイロな病気の経験も思い出される。記憶に残る4歳時の破傷風から昨年の腎臓結石まで、年代順(基本的に)に拾い出してみたいと思う。

537 漁港巡り⑰高谷(こうや)漁港

ハリセンボン2
  香川県西部の半島の付け根の小さな岬の先端にある漁港。若い頃地図を見ていて、偶然私と同姓の地名を見つけた。当時遠距離恋愛をしていて、このブログに何度も登場する私と同姓の彼女(⑪天国から地獄・164失恋⑬まさこ・272恩人⑦まさこ・343桂浜への道⑭彼女・⑮DNA)とルーツ探しに出かけたことがあった。船溜まりに漁船が少し、ドックもない小さな漁港の周りを散策し、クサフグやハリセンボンを見つけ、すぐにふくれっ面になる彼女に「一緒だね」とからかった記憶はいまもはっきり残っている。しかし帰りのバス停で、高谷(こうや)の表示を見て二人でガックリ!(私も彼女も高谷(たかや))。昨年のこと、近くを通りかかって寄り道をしてみたことがあった。新しいコンクリートの防波堤になっていたが、ハリセンボンやクサフグの姿を見つけることが出来た。そして半世紀前の、二十歳の彼女の面影に浸ることができたのであった。

536 漁港巡り⑯苦汁(くじゅう)湾

マヒトデ
  私の生まれた鳴門市鳴門町高島は、塩田の町だった。父は鳴塩(鳴門塩業合同組合)の事務員、二人の叔父も勤めていた。その製塩工場の荷役の船が出入りしていたのが苦汁湾である。小学生の頃、叔父に連れられて何度もグジュウ湾へ釣りにいった。ベラやカサゴがよく釣れたが、大きなマヒトデを釣り上げた60年以上前の記憶がはっきりと残っている。クジュウがニガリの意味だとわかったのは、中学生になってからだった。“鳴塩”は移転し現在の苦汁湾には数台のプレジャーボートが係留されているだけだが、私は年に一度の採集で鳴門に帰った時は、必ずここも覗く。やはりナマコやマヒトデが、ポツリポツリと見られるのである。

535 漁港巡り⑮亀浦漁港

青ナマコ
  渦潮で有名な徳島県鳴門市の、鳴門公園の直下にある漁港である。中学生の頃ここは私の遊び場だった。悪友の西村・江口らと小舟で沖へ漕ぎ出してタバコを吸ったこともあった。潮に流されて通りがかった漁船に救助され「小豆島まで流されるところだったぞ」と怒られたことは今もはっきり覚えている。現在は大鳴門橋のアクセス路の橋脚や新しい堤防も作られているが、港の奥の船溜まりは昔のまま。年に一度、実家前の桟橋で磯採集(99磯採集⑭高島渡船場)に行く時、助手に女の子がついて来た時は、鳴門公園の案内をするが、その時は亀浦港から出る観潮船にも乗る。だからその待ち時間に必ず船溜まりを覗き、ヒトデやのナマコを探すことは欠かさないのである。

534 漁港巡り⑭三津の青潮

チワラスボ
  プランクトンの大量発生による“赤潮”は有名だが、それに似た現象で、同様に魚介類が大量死する“青潮”というのがある。東京湾の青潮はよく知られているが、三津漁港でも毎年のように発生している。三津漁港は入り口が狭く奥が深いので、港奥の海水の入れ替わりにがあまり良くない。梅雨時の小潮回り時に長周期のうねりが重なると、港奥に溜まっているヘドロが巻きあがり、海水中の酸素不足が始まる。それをきっかけに底生生物や魚類がもがきはじめ、酸素不足が加速し水質が悪化。最後には港全体が“死の海”になる。その直前の魚がフラフラし始めた時が私の漁のタイミング。連絡を受けて急行。チヌやボラ・カサゴのほか、大量のハゼ類が獲り放題。珍しいチワラスボが獲れたこともあったのである。

533 漁港巡り⑬三津漁港

バンドウイルカ3
  室戸岬東岸のこの漁港こそが、私にとっての運命の場所!!。私の水族館人生の実質的なスタートと、それ以後の飼育員としての私を支え続けてくれた漁港なのである。昭和48年10月、この漁港にイルカが住み着いた。私は「イルカちょうだい」とおねだりに通い(345桂浜への道⑰イルカに通う)、その後桂浜に運ぶための訓練に約一か月通い詰めた。その間に大敷網漁に同乗させてもらい、マンボウと出会う。偶然にもそのマンボウの飼育に成功し(346桂浜への道⑱マンボウに挑戦347⑲奇跡のマンボウ)飼育員としての自信がついたのである。私と三津漁港とは、運命の赤い糸で強く強く結ばれていたのである。
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もったいないおやじ

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