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347 桂浜への道⑲奇跡のマンボウ

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 昭和49年2月22日朝6時50分に捕獲したマンボウ(私の2頭目)も、かなりのスレ(傷)があり、前回のと同様に、一週間から10日ほどの命と思えた。餌は強制的に口の中に押し込めば、食べるようになることは経験済みだった。しかしヒレや腹部に大きなスレがあり、ビランが広がっている。そのビランしたヒレをパタパタさせながらゆっくり泳ぐ。2週間が過ぎても相変わらず、ほんの少しのアサリを食べてパタリパタリ。スレも目立ってもう時間の問題と思われた。しかし25日が過ぎた頃、ちょっと元気が出てきたような感じがした。そして30日目のこと、棒の先のフックに引っかけたアサリを目の前に差し出すと、大きな目玉をギョロッと動かせて追っかけるそぶりを見せたのである。その日から急に餌の量もふえ、スレが治る気配を見せはじめた。そしてまたたく間にそのまでの飼育記録を更新し、新聞・テレビにも取りあげられた。大型の水族館が苦労しても48日間だったのに、私のマンボウは結局125日間と云ふ、当時としては奇跡的な大記録(⑱世界新記録)を打ち立てたのである。これが私のDNAが用意してくれたプレゼントだった。そしてそれから30年間にわたるマンボウとの格闘が始まり、私は“桂浜”から離れられなくなってしまったのである。
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346 桂浜への道⑱マンボウに挑戦

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 イルカの給餌トレーニングに通う中で、室戸の大敷網漁の船に便乗させてもらう機会があった。その時に出合ったマンボウに一目ぼれ。マンボウはその大きさや、ゆったりした動き・知名度など、どこから見ても水族館の人気者になりそうな要素をそなえている。しかし調べてみると飼育がむずかしい魚で、それまでの最長飼育記録は48日間とのことだった。油壺や鴨川などのような、設備もスタッフも整った水族館でもむずかしいものが“桂浜”で飼えるはずがないとも思ったが、まずはためしと捕獲を試みた。体長85cm・体重35kgのマンボウを大敷網の中から抱きあげて、船上ではバケツで海水をかけながら、15分ほどで市場のタンクへ。かなり暴れて飼育のむずかしさを感じさせた。このマンボウは桂浜で8日間しか生きなかったが、この間に強制的だが餌を食べさせることに成功し、何か手ごたえのようなものを感じたのである(⑰マンボウとの出合い)。

345 桂浜への道⑰イルカに通う

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 この頃から私は自分が水族館の飼育員らしくなりつつあるように思えてきた。そしてそれを確定させたのがイルカだった。昭和48年10月28日の事。“室戸の漁港にイルカが3頭住みついた”との新聞記事を見てすぐに室戸へ走った。「桂浜にください」と頼むと「保育園の子供達が可愛がってるのでダメ」と云われた。しかしあきらめきれずに、休日のたびに見物に行って、漁協の組合長にねだった。すると突然「そちらで引き取ってくれ」との電話が来た。見物人のイタズラが原因で、2頭が死んでしまったとのこと。その日から私の室戸通いが始まった。朝5時に出て室戸まで2時間。7時から1時間餌付けトレーニング。10時前には桂浜に帰り3時まで仕事で、5時からは室戸でトレーニング。これを25日間頑張った。休日ナシで朝5時から夜8時までの15時間労働だったが、本人は充実していたので平気だった。しかし、買ったばかりの中古車がダウン。車屋は「一ヶ月に9,000km以上も走らせる人は知らん」とあきれていた。体にさわれるようになるまで慣れさせたイルカは、お正月に間に合ふように、12月23日に無事桂浜に搬入することが出来たのである(⑮イルカ入館・⑯300円)。

344 桂浜への道⑯失恋の効果

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 失恋のショックは私を少しだけ強くしたような気がする。当時、仕事は予想外のことが多く、不満だらけだったので恩師にも相談し、転職を模索していた。「場合によっては、いつでもやめてやる」と覚悟を決め、自戒を込めて長髪をバッサリ切り坊主頭にすると、それまでためらうことも多かった館長への注文を次々とぶつけれるようになった。「潜水採集をしてみたいので、スキューバセットを買って下さい」。「勉強のため他の水族館を見に行かせて」と出張あつかいで須磨・串本・太地・鳥羽・竹島と回ったり、採集用の水槽付トラックもねだった。館長はたいていの要求や提案をすんなり聞いてくれた。数年後、そのあたりのことを話す機会があり「お前には積極性がとぼしいと感じていたが、あの坊頭にした頃、やっと動きだしてくれた。なんかあったのか」と云われた。私はヤケクソになっただけだったが、館長は私の変化をよく見ていたようだった。

343 桂浜への道⑮DNA

まさこ

 “桂浜”での仕事が私の求めた仕事なのか、と悩みながら「お嬢さんを幸せにします」などと、あの母親を説得するようなマネは、私にはとても出来ない。私の煮え切らない態度に、不信感もわいただろうと思う。私の決断を待っている自信をなくして、ついに彼女は私を見限った(⑪天国から地獄)。自分の不甲斐なさを棚に上げて「母親に見合いをさせられて、私を見捨てるように強要されたにちがいない」などと勝手な想像をして自分をなぐさめたりもした。私には“卒業”のダスティンホフマンのように、彼女を奪いに行く勇気などあるわけもない。とにかく彼女のDNAは私を選んではくれなかった。当時はかなり落ち込んだ(⑫死神のリスト)が、40年を経った今となっては、これも私と彼女のDNAのなせる技。絶対に変えることの出来ない『運命』だったと思えてならないのである。彼女もいなくなった機会に“桂浜”から逃げ出すことも考えたが、DNAは「もう少し頑張っていれば、いいこと(後述)もあるよ」と、示唆していたようである。

342 桂浜への道⑭彼女

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 もう1つ私が“桂浜”に定着するかどうかの別れ道だったのが、このブログに何度も登場する(⑪天国から地獄・77実習生③ポンタ・164失恋⑬まさこ・272恩人⑦まさこ)“まさこ”の存在だった。彼女は大学一年の秋の寮の部屋替えで、同室になった男(写真〇印・△は私)が「オレの後輩にタカヤマサコ(私はタカヤマサオ)と云ふ可愛い娘がいるが、親類か?」と聞いてきたのがきっかけだった。彼の勧めもあって、おもしろそうだからと年賀状を出してみた。それから文通が始まり、4年生の時に初めてデート。大阪に就職してからは結婚も考え、彼女の母親にも会いに行った。しかし私の口下手のせいもあったのか印象が悪かったようで、ずい分厳しいことを云われて追い返された。そしてそれと同時期に大阪でのいきづまりを感じて“桂浜”へ転職。ところが“桂浜”では思惑がちがい(②初日・⑥飼育員の仕事・⑦運命の魚・等)。転職は失敗だったかも、と考える日々が続いていた。彼女との結婚を望むなら、もっと別の仕事を探さねばならないと思うようになっていたのである。

341 桂浜への道⑬求人票

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 恩師は“桂浜”を紹介してくれたが、「他にもあたってみるのであせるな。安売りすることはない」とも云われた。しかし私は“桂浜”に飛びついた。小学校の頃からあこがれていた医師(333 ⑤カッケ?)ではないが、水族館の飼育員なら“お魚のお医者”みたいなものとも考えたようである。一抹の不安は、ボロボロで今にもつぶれそうな水族館だったこと。先々代の館長の所へ面接(①面接)に行くと「4年前から高知大へ求人票を出しているが、反応してくれたのは初めて。間もなく水族館を新築(これが決め手だった)する予定なので是非とも来て欲しい」とのことだった。館長は農学部に栽培漁業学科が出来ていることを知らず、理学部(生物)のほうへ求人していたのである。もし仮に農学部へも求人票を出していたら、私がそれに気付いて卒業と共に“桂浜”へ行った可能性は大きいと思う。そうすると先々週書いたように、台風10号に打ちのめされて逃げ出していただろう。私のDNAは、あえて回り道を選ばせたと思えてならないのである。

340 桂浜への道⑫ソロバン

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 私の社会人としてのスタートは、大阪市中央卸売市場での、セリ人見習いだった。真夜中(午前3時)に出勤。朝5時からのセリのために、荷物を整理する。魚類の並べ方や見ばえで、魚価が大きく変るとのことで、イサギやレンコダイの大きさや鮮度を見分けながら並べる作業は、おもしろく充実していた。セリが始まると魚価(セリ値)と数量、売り先(仲買の名前)を帳につけ、その後事務所での集計。私は小学4年の時、母からソロバン塾を勧められたことがあったが「ボクが大人になる頃には計算機が発達していて、ソロバンは不用になっている」と言ったことを覚えている。しかしその予想はほんの数年ズレていた。“答え一発カシオミニ”が1万円で発売されたのは、私が退社して1年後(昭和47年8月)のことである。魚市場ではソロバンなしでは仕事にならず苦労させられた。しかし人間嫌いの私が最もイヤだったのが、大勢の仲買さんとのつき合いだった。1年余り頑張ってみたものの耐え切れず、恩師(278恩人⑬山口先生)に助けを求めることになったのである。

339 桂浜への道⑪台風10号

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 私が大学を卒業した頃(昭和45年)は人手不足の時代で、就職は完全な売手市場。私のように成績不良で、かろうじて卒業出来たような学生でも引く手あまただった。とは云っても高望みは出来ず、お魚に関係のある仕事と云ふことで魚市場を選んでみた。しかしこのことも私が“桂浜”に骨をうずめるための、重要な要件となったのである。もし仮にもっと考えて、卒業時に“桂浜”を選んでいたとしたら(可能性はあった)、その半年後“桂浜”から逃げ出していたことはまちがいないのである。昭和45年8月21日、高知を襲った台風10号は高知市を水没させ、桂浜水族館も壊滅的被害を受けた。館長によると「半年ちかく閉館させられた」とのこと。あとかたずけと修理にあけくれたはずの半年間を私が耐えられたとは、とても思えなかったのである。

338 桂浜への道⑩留年

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 1年生の時は、授業も頑張ったつもりだったが、前述(335⑦奇跡・336⑧奇跡の裏側)のように背伸び入学だった私には、高知大学は少しハイレベルだった。1・2年の一般教養は正直しんどかった。特に外国語には苦労した。そのせいもあったのか、2年生になって生活が乱れた。マージャン・パチンコとアルバイトにあけくれ、水泳部はもちろん授業にもほとんど出なくなり、当然単位を落とし、留年が決まった時は、もう退学しようかとも思った。しかし3年生からの専門の授業は、それなりにおもしろかったこともあり、なんとか1年遅れで卒業にこぎつけた。しかしこの“1年遅れ”にも重要な意味があったのである。4年間で卒業していたら出会うはずのなかった先生が、5年生の私の担任となり生涯の恩師(278恩人⑬山口先生)となる。留年は“桂浜”への道にはなくてはならないステップだったとしか思えないのである。

337 桂浜への道⑨1年生

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 高知大学農学部栽培漁業学科に入学したことで、私は“桂浜”へのルートに大きく踏み込んだと云える。大学では水泳部を頑張った。しかし所詮は三流選手、四国大会へ行ってみると、中学・高校の県大会で一度も勝てなかった男が徳島大学に進学していて、そいつのせいで全国大会へは出られなかった。だから途中からは練習をサボって太平洋での磯遊びをするようにもなった。これも後に“桂浜”での仕事に役立つことになる。ある時友人達と桂浜水族館へ遊びに行ったこともあったが、その時点では小学生の修学旅行(331桂浜への道③桂浜への出合い)のことを思い出したものの、生涯の仕事場になる予感などは全く感じなかった。なにしろボロボロで、今にも閉館になりそうな水族館。この時点では“桂浜”はまだまだ意識の外だったようである。

336 桂浜への道⑧奇跡の裏側

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 高知大学を目標に決めたのは、高1の時だが、2年になってから作戦を立てた。合格ラインが最も低いのは農学部林学科。5科目各100点で、半分の250点取れば可能性があるとのこと。得意の生物で90点、世界史は80点近くいけるかも。数学は4問中1問に必ず図形の問題が出るので、これを解いて25点。英語は中2レベルで止まっているので、もう間に合わないから無視することにして、国語が50点以上取れれば、もしかして合格もあり得る。この計画で生物・世界史・図形の問題に集中することにしたのである。そしてもう1つの決定的な要素が、学科の新設だった。受験票を取ると「来期から栽培漁業学科が新設されます」とのこと。今のようにインターネットもない時代。新設は受験票を取った人以外はほとんど知らないだろうから、その学科の倍率はかなり低いと見込んで、栽培漁業学科を選んだ。これがDNAによって示された私の道だったようだ。誰にも言わなかったが、私は受験直後に80%以上の合格を確信していた。“奇跡”は昭和40年に栽培漁業学科が新設(私と“桂浜”のために)されたことだったのである。

335 桂浜への道⑦奇跡

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 私が高校に入学した年(昭和37年)、長兄は愛媛大学に入学、次兄は高3で徳島大学を狙っていた。成績は不良だったが、私も大学をめざすことにした。いろいろ調べた結果、受験科目が少ないと云ふ理由だけで高知大学を目標に選んだ。しかし高2の頃には、合格圏の成績にはとてもとどきそうにないことも自覚していた。そして私の成績が伸びないのは中2の夏に受けたダメージ(333桂浜への道⑤カッケ?)のせいがあると思うようになっていたのである。だから高3になった頃には、自分の秘策は別にして「私は高知大学を“記念受験”する」と公表していた。そして現実には大学受験の前に、母親の勧めで警察官を受験し合格していた。その時点で、私は徳島県警を生涯の仕事場と決めていたのである。しかし私のDNAはそれをくつがえした。県のほうから「制服のサイズを測りに来て下さい」と指定された日の朝の新聞に、大学合格者として私の名前が載っていたのである。一緒に高知大学を受験した5人の中では、最低の成績だった私のみが合格“鳴門高校の奇跡”と話題になった。

334 桂浜への道⑥空気ボンベ

s-高谷さん

 中学3年の水泳部では、練習を放り出して水中銛でタコや魚を追ふことに夢中になり、空気ボンベを作ろうとしたことがあった。家にあった長さ40cm、直径10cmほどの鉄パイプに木の栓をして、アスファルトで密封し、自転車のチューブの口金を注入口、水道の蛇口を使って空気を取り出すように設計した。空気はもちろん自転車用の空気入れで押し込む。木の栓や口金が圧力でふっ飛ぶ失敗もあったが、何とか空気を吸い込む実験までこぎつけた。しかし思い切り吸い込んだ空気は、空気入れにしみ込んでいた機械油の成分がタップリ含まれていて、吐き気が夕方まで治まらなかったのを覚えている。この頃から、生き物だけでなく機械類にも興味を持つ“エコおやじ”(設備・機械担当の飼育員)の素養があったようである。私が本物のスキューバのボンベを使うのは、それからちょうど10年後“桂浜”に来て1年ほど過ぎた頃のことであった。
 
 写真は小鳴門橋(昭和36年7月開通)。主塔の立つ鍋島の周りの小鳴門海峡も、チヌ(キビレ)・カサゴ・ベラ・タカノハダイ・マダコなどを追いまわす、水泳部の遊び場(練習場)だった。

333 桂浜への道⑤カッケ?

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中学2年の夏、私のその後の人生を大きく変えたかも知れない事件(事故)があった。

当時鳴門市にあった水族館に、
市内で唯一のプールがあり、試合前などはそこを借りて練習をしていた。

その時みんなで潜水競争をすることになり、私は非常に頑張って50mを潜り切った。
ところが頑張り過ぎたせいで、後頭部をハンマーで殴られたような痛みで、その場に倒れてしまった。

家に帰っても痛みが引かず、翌日近所の医者に診てもらった。
問診・聴診のあと、膝関節の脊髄反射がないことに気付き
「これはカッケだろう」とビタミン剤を処方してくれた。

私は野菜嫌いだったので、母はこの診断に納得したようだった。
痛みは数日で引いていったが、この中2の夏以後成績が段々下りはじめたのである。

それまでは別段の努力をしなくても、ある程度の成績を残せたのに、
中3では努力しても、思うような成績は得られなくなった気がする。

あの時の頭痛は、酸素不足によって、脳の海馬細胞が大量に死滅したのだと思えてならない。
もしあの時潜水ゲームに参加していなかったら、
私は小学生の頃からぼんやりあこがれていた、祖父の仕事(医師)をめざし、
今とは全く別な人生を送っていたかもしれないと思うこともあるのである。




桂浜水族館公式ホームページ   2013年11月23日(土) 掲載

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332 桂浜への道④水泳部 

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中学では卓球部だった2人の兄とはちがい、
水泳部に入部(279恩人⑭山田耕三先生)した(これも私のDNAが仕込んだ結果とも思える)。

当時の中学にはプールなどはありえなかった。
水泳部の練習場は“ニオ”と呼ばれる水路だった。

学校では危険を考慮して、ニオを遊泳禁止場所に指定していたが、
“水泳部はこの限りにあらず”との勝手なルール(先生との暗黙の了解)を作り、
おもに流れの速いニオの水門(写真)まわりで練習した。

そこは魚も集まる所なので、釣竿だけでなく水中銛も用意して、
遊びまわったものである。

運動神経が鈍く、カケッコではいつもビリだった私だが、
平泳ぎだけは他の水泳部員にも負けなかった。

素潜りで、銛を持ってチヌ(キビレ)やタカノハダイを追ふことも、
平泳ぎの練習になったのはまちがいない。

私の人生は、海と魚から離れられないことを予感するような、
楽しい水泳部だったように記憶している。





桂浜水族館公式ホームページ   2013年11月16日(土) 掲載

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331 桂浜への道③桂浜との出合い

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徳島県生まれの私が、
初めて高知県と出合ふのは小学校の修学旅行。

そのころの鳴門市の小学校は、すべて高知観光だった。
今でも定番の、龍河洞・高知城・桂浜と回った。

当時はまだ戦後の食糧難の時代で、
お米は配給だったので、宿泊先の井川旅館で各自が持って来た米を
順番に並んで米びつへ入れた記憶がはっきり残っている。

桂浜では旧水族館の海亀プールの亀の手をつかんで引っぱった。
お返しにバシャッと水シブキをかけられ、
私の周りにいた者までビショビショになり、
あいにくの雨の中、みんなにブツブツ云われながら、
バスに乗り込んだ記憶がある。

この時のアカウミガメが13年後に私を迎えてくれることになるのである。

今思えばDNAはそのことを示唆していたのだろうが、
当時の私にはその『運命』の気配さを感じることは出来なかったようである。




桂浜水族館公式ホームページ   2013年11月09日(土) 掲載

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330 桂浜への道②ミニミニ水族館

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小学4年の時、私は魚の飼育を試みたことがあった。
今とちがって、水槽はもちろん、プラスチックのバケツも無い時代。

ブリキのバケツを持ち出し、潮だまりで小さなハゼと
黄色と黒の縞模様のきれいな魚(ナベカ)をつかまえてきた。

母は「バケツが錆びるから塩水はダメ」と言って、
代りに多分ウメボシ用の壺を用意してくれた。

ハゼ2尾とナベカを入れた壺に、
石に張りついたヘビガイの死骸(殻)を入れると、
ナベカは殻に入って首だけ出して、私のほうを見ているようだった。

これが私のミニミニ水族館。
この魚達は翌日学校から帰ると、3尾共浮き上がっていた。

縁側に置いてあったので、
直射日光が当りお湯になってしまっていたのである。

しかし当然のことながら、この時点で“水族館の飼育員”を
予感することなどは、ありえなかった。





桂浜水族館公式ホームページ   2013年11月02日(土) 掲載

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329 桂浜への道①3歳の記憶

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私がこの世に生まれて最初の記憶は、満3歳の夏の水遊び。

生家の50mほど先の海辺で、
海水浴をした時のフリチンの写真が、その根拠である。

砂浜に腹ばいになって、両手で円を作り小さなハゼをかこい込んでつかまえた。
長さ2m余り、巾30cmほどの歩み板を引きずり、
遊び場の上の桟橋から投げ落とし、
その板を浮きにして、みんなでつかまって泳いだものである。

だから私は、何歳の時に泳げるようになったかはさだかでない。
気付いた時にはその板を離れて、平泳ぎをしていた。

しかしこの場所での海水浴は、
小学校に入学した頃まで続いていたので、
5・6歳の頃の記憶と混じってしまっているかも知れない。

いずれにしても、私は物心ついた頃から、
海に親しみ魚と共に生きるように、
DNAに運命付けられていたのは、まちがいなさそうである。





桂浜水族館公式ホームページ   2013年10月26日(土) 掲載

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328 桂浜への道(序)

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M(もったいない)おやじの日記帳も6年半を過ぎて、ネタ切れに悩まされています。
今回ひねりだしたのは“私の半生”。

それも私が桂浜水族館(以後“桂浜”)の飼育員として
骨をうずめることになるまでの道のりを思いかえしてみたいと思う。

私は常々“人間の生涯は、すべてDNAに記録されていて、
絶対に変えることが出来ない『運命』なのである”との説を
主張している(ただし信じているわけではない)。

私の67年間をふり返るに、私は運命の糸(DNA)に導かれるままに、
“桂浜”へ引きずられてきたように思えてならないのである。

中学・高校・大学・等いろんな所に分岐点はあったが、
そのいずれもが“桂浜”への道(奇跡的なことを含めて)を
選択させられていたように思える。

そのあたりを十数回に分けて書いてみたいと思う。




桂浜水族館公式ホームページ   2013年10月20日(日) 掲載

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プロフィール     ロリコンのおじん

もったいないおやじ

Author:もったいないおやじ
桂浜水族館を縁の下から支えて半世紀。

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