小学生向けの月刊誌から「マンボウと一緒に泳いでいる写真を撮らせて欲しい」との申し込みがあり、
私とカメラマンがマンボウプールに入ったのは、飼育122日目のことだった。
しかしその日から急に調子が狂い、世界記録は125日でストップした。
死体を恩師の研究室(高知大学農学部)へ運んで解剖。
供養のため立合人全員が一口づつ食べてやることにした。

(写真,中央筆者・当時28歳)イカに似た味だった。
死因は腸閉塞。
エサに与えたキビナゴの骨が未消化の状態でダンゴ状につまっていた。
私が泳いだ時のショックが、引き金になったに違いないと思い、大いに反省した。
原因がもっと深い所にあったのを知るには、それから5年の歳月が必要だった。
(昭和49年6月27日)
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昭和49年2月22日。85cm30kgのマンボウが入館“まさこ(忘れられない名前)”と名付けた。プールに入れて3日目、餌のアサリの身を流し込むように口に入れてやると、そのまま食べてしまった。“餌付けの難しい魚”と聞いていたので、全くの拍子ぬけ。それから毎日、ほんの少しの餌を食べ、少し浮きぎみでフラフラと泳ぐ。一週間後には運んだ時の傷が広がり、15日目頃には、背ビレの棘が露出するほど、ビランがひどくなってきた。あと数日で背ビレが折れるかも?それまでの命と思っていた。ところがそのまま頑張って、30日目のこと、差し出した餌に反応して、追っかけて吸い込んだ。その日を境に、傷はどんどん良くなり、泳ぎが安定し、体も太ってきた。大目標だった48日(飼育記録)をまたたく間にクリアした。“飼育の難しい魚”との情報からは、信じられない結果だった。名前が良かったのか運が良かっただけなのか、桂浜だけの特別な条件があったのか?とにかく“世界新記録”と云うことで、新聞、テレビの取材が次々と舞い込み、私は有頂天だった。(昭和49年5月)
大敷網漁の船に同乗させてもらったのは、イルカの給餌に通い始めて間もなくのことだった。狭められてゆく網の中、季節外れのシイラの群の下に、白っぽい、ユッタリ泳ぐ魚が見える。サメかな?と思いながらよく見ると、丸い変わった形の魚。これがマンボウとの出合いだった。“巨大な体で太平洋上に浮いている”とか“マグロ延縄にかかることがある”などの知識はあったが、図鑑でしか見ることが出来ない、夢の魚だと思っていた。それが目の前に、引き上げられた。すぐさま、漁師さん達から情報収集。「20kぐらいのが獲れる事もある」「漁期は12月から4月頃まで」「多い日には4~5尾獲れるかな?」など、飼育の可能性を示す答えが、返ってきた。捕獲・輸送・飼育と次々にイメージし、問題点を捜し、対策を考えながらの帰り道。“イルカを運んだら次はマンボウだ”興奮のあまり、室戸から高知市までの2時間が、一瞬で過ぎ去ったことを記憶している(昭和48年12月)
昭和48年頃、室戸沖の大型定置網(大敷網)に、冬場バンドウイルカやゴンドウクジラが入網することがあった。解体業者がいて、三千円から五千円程度で引き取って、干し肉を作っていたらしい。その日はたまたま業者が不在で、仲買人が値を付け渋り、冗談半分に“300円”を示した。せり人が怒り「それなら売らずに逃してやる」と云って、まだ息のあった3頭を港の中へ放り込んだ。三津漁港は奥が深くて出入口はせまく、その上曲ってる。イルカ達は出口を見つけられずに、船溜りに住みついてしまったのである。解体される予定だったので、尾ビレにロープをかけてクレーンで吊り上げられ、市場のコンクリートの上に、2時間以上も放置されるなど、非常に厳しい常条件の中を生き抜いてきた。幸運と偶然の組み合わせの上に、私の運命は重なることになる。以後33年余り、魚類採集の最重要拠点として、三津漁港通いは、現在も続いている。私の人生は“300円のイルカ”によって決定したと云える。私は今も、室戸へ足を向けては眠らない。
“室戸市の三津漁港にイルカが3頭住みついた”との新聞記事を見て、即日走った。ちょうど漁協の人が餌を投げている所だった。水中で餌を追ってるのを確認してから「水族館に下さい」と声をかけた。「保育所の子供たちが名前をつけて可愛がってるのでダメ」とのこと。休みの度に3度ほど見に行って、1日中眺め、漁協の人が出て来る度に「水族館に下さい」を繰り返した。するとある日突然「やるから来い」との電話。3頭のうち2頭が急死。見物客のイタズラらしかった。
それから毎日、朝5時に下宿を出て、7時に室戸で餌を与え、9時半から3時まで桂浜で仕事。また室戸まで走って夕方の餌。買ったばかりの中古車は、28日間9,500km走らされ音をあげた。休日なしの15時間労働だったが、充実していた。餌を手渡しで食べさせて、体に触れるまでに慣れたイルカは“三津子”と名付けられ、予定通りお正月前に入館した。(昭和48年12月23日)
白点病は発見が遅れると、水槽内の魚が全滅することもある、恐ろしい病気である。それゆえよく研究され、原因虫の生活史を利用した対策が確立されている。当時の桂浜では“水槽洗浄”で対応していた。発生した水槽の魚を全部移動し、逆性石鹸で洗っていた。大変な手間なので、何とかしたいと思っていた。原因虫は銅イオンに弱いが、魚の体に着いている時は、バリヤーに守られている。しかし約一週間後に、卵を産むと寿命が尽きる。生まれた子が、魚体に泳ぎ付くまでは、バリヤーがないので、銅イオンで即死と授業で習った。しかし桂浜の水槽は開放式で、常時新しい海水が流入していた。館長も、銅イオンのことは知っていたが、すぐ流れてしまって効き目がなかったらしい。私は点滴を試みた。海水の流入量とバランスを取って、1PPMの銅イオンを維持するように、流し続けた。これがうまくいってから、館長は少しづつ、私にも魚の世話をまかせるようになってきた。(昭和48年夏)
桂浜に来て1年半、大工仕事を中心に雑役ばかりの毎日に、悩んでいた。釣り採集で、ストレスを発散していたが、物足りなかった。ある日物置の奥で、300ℓほどのアクリル水槽を見つけた。お魚を扱わせてもらえないなら、他のものをと考えていたころだったので、秘かに計画を練った。こっそり給・配水管を埋め込み、展示用のウニ・ヒトデなども隠しておくなどして、準備を整えておいて、館長が留守の日をねらって、一気に、磯生物水槽を組みあげた。翌日館長は「高谷水槽か。フォッフォッフォッ」と笑っただけだった。その後水槽内にカケヒを取り付けて波を表現し、浮子とサイフォン管で、1日に5~6回干満を繰り返す潮汐水槽へと進化していった。“高谷水槽”は私を飼育員になった気分にさせてくれた、最初の仕事だった。(昭和48年春)
高知港入り口に長い(1,5km)防波堤がある。私のお気に入りの釣場の1つであった。いろいろ悩ましい考えを振り払う意味もあって、度々そこで夜釣りをした。その日は、月もなく真っ暗闇、波の音が少し変な感じだった。先端に着いて道具を置いて。何か変だな?雨の気配はないのに濡れてる…。と思いつつ、まずは腹ごしらえ。いつものように、1mほど高い、灯台の基礎に上がって、アンパンをくわえた。その時、ザワザワと奇妙な波音に続いて、バーンと巨大な波柱が目の前に立ち上がった。灯台の鉄骨にしがみつき、大波をやり過ごす。3発目の波に、体が浮き上がりそうになった。ヘッドランプ以外は、太平洋の暗闇に消えていった。ほんの少しのタイミングで私の体も…。当時は、それも良かったかも知れない、と思っていたような記述が、日記に残っている。しかし死神のリストに、私の名前は無かったようだ。とにかく拾った命。それ以後、夜釣りの時は、必ず天気図を見て、沖に台風がいないことを確認してから出ることにした。(昭和47年秋)
夕方から、チヌをねらって竜宮様(水族館から150mほど先の釣場)へ。その日は生まれて初めてと云えるほどの大漁。前日、夜中までかかって集めたゴウナ(この地方独特のチヌ釣り用のエサ。正式にはカワニナ)の成果か。ウキが見えなくなるまでの2時間足らずの間に、25cm以上のチヌを9尾釣り上げ、3度に分けて水族館まで運んだ。中でも最大は45cm1,6kgの大物で、これを越えるチヌは、現在まで釣り上げていない。しかし大釣果に浮かれて、極楽気分で帰った下宿に、1通の手紙が待っていた。“お見合いしました。ごめんなさい”結婚の約束をした“つもり”だった人からの、絶縁状だった。(昭和47年5月10日)
「歴史ある建物」と云えば聞こえはいいが、昭和12年に、しかも突貫工事で建てられたと云う水族館は、35年余りの太平洋の塩風にさらされて、もうボロボロ、今にもこわれそうな建物で営業していた。面接に同行してくれた恩師は「こんなボロ水族館なんか、薦めたくないんだけどな…」と云っていた。聞こえたはずはなかったのだが、館長は開口一番「浦戸大橋の開通に間に合うように新築するので、是非来て下さい。約束します」この言葉で、かすかに残っていたためらいもふっ切れた。この時すでに大橋は、橋脚が立ちはじめていた。しかしこの約束が果たされるまでに13年余りもかかってしまう。高知市から横槍が入り 「桂浜開発計画で売店群が移転する。新築は合わせて下さい」とのこと。移転補償問題がこじれて計画はストップ。「わしのせいではない」と云いながら、この新築計画が話題のなった時だけは、申し訳なさそうな顔になっていた。その顔を見て私は、「この人についていっても大丈夫」と思えるようになった。(昭和47年)
多彩な趣味を持ち、包容力があり、
人を見る目を持った人だったと思う。
魚類の飼育はもちろん、電気やポンプにも詳しく、
人生についても含めて、いろいろ教え込まれた。
「わしは館長兼小使い。お前はその助手。なんでもやらにゃいかんぞ」と云うことで、
雑用がいっぱい回って来た。
庭いじりの手伝いがきつかった時など「召し使いに雇われたんじゃないよう」と思い、
逃げ出したくなったことも度々だった。
半年ほど過ぎたころ「お前は進路を間違えたな。
機械か電気の方が向いているようだ」と云う。
その時は「仕方なくやらされているんだよう」と云いたかった。
私は生き物に興味があって魚類のほうへ進んだ。
数学は苦手で、不器用だったので、機械関係などは、
進路として考えたこともなかった。
しかしそれから12年後、水族館の新築計画が動き始めたころには、
電気や設備のほうを得意とする飼育員になっていることに、気付かされることになる。(昭和47年)
館長の1の子分を自認する“浪やん”は、公務員だったが、
休みの時などはいつも水族館に来て、手伝ったりブラブラしたり。
そして機械類のトラブルを一手に引き受けていた。
館長に呼ばれたら、真夜中でも飛んで来て、ポンプを修理してたらしい。
私はこの人から、機械類との付き合い方を学んだ。
サビ付いて、動きそうもないナットをはずし、ペラの隙間をヤスリで削り、
ベアリングとパッキンを取り替えて、30年以上前のポンプを再生するのを見せてもらった。
折れた部品の代替品を要領よく作ったり、接着剤や針金での応急修理を見習った。
「こわれた機械は捨てないこと!
ピンやナット、スプリングなど、役に立つ部品が必ず取れる」。
私の『もったいない』はこの人から教え込まれたものだと思っている。(昭和46年~)
私の考えていた飼育員とは、かけはなれた現状に悩んでいた。
進路を変えるべきか、もう少し頑張ろうか。
考えているうちに眠れなくなり、真夜中に下宿を抜け出した。
唯一の飼育員らしい仕事を頑張ってみようと考えて、水族館へ忍び込み、
館長の愛犬に気付かれないように釣具を持ち出した。
釣り場に着いて間もなく、冷たい雨がシトシト降り出した。
それから2時間余り、夜も明けてそろそろ切り上げようかと思ったころのこと
、ついにあの大物が食いついた。
沖へ走ってエラ洗いをする姿が見えた時は、足がふるえた。
20分ほどかけて足元まで寄せたが、玉網に入らない。
磯から磯へ飛び移り、砂浜まで引き寄せるのにさらに10分ほどかかった。
防寒の雨合羽でグルグル巻き。
出勤して来たおみやげ店のおばちゃんに、
赤んぼうを見せるように、顔だけ見せて水族館へ走る。
この体長81cmのヒラスズキは、その後1年余り水族館の住民になった。
そしてこの魚が、私を桂浜に引き止める“運命の魚”になったと思っている。(昭和46年12月23日)
「朝5時半までに室戸へ行ってくれ」突然の館長命令。
4時前に下宿を抜け出す。
国道をはずれてからは、車道と思えない谷ぞいの道を無理やり登り、
トラックを乗り捨ててさらに20分ほど登った所で夜が明けた。
「高谷君はこれと、それと、あの木を掘り出して」と云い残し
、植木屋さんは仲間と2人で上へ。
慣れないクワやツルハシを振り回して、
やっと2本目のクロガネモチの株を掘り越したころには日が傾き、
植木屋さんは10本ほどの切株を引きずりおろしてきた。
高知に帰り、仮り植えを済ましたのは10時過ぎ。
「あと2日、頑張ってね」筋肉痛でフロにも入れずバタン。
それでも3日目には4本堀り起した。
下草に埋れて朽ち果てる運命の切り株を館長の趣味で、庭木に再生させるとのこと。
18時間の重労働が3日間。これも飼育員の仕事なの???
25才の新入社員の悩みは深い。(昭和46年12月)
突然、館長が、釣竿とシカケ類セットを買ってきて
「高谷!(Mおやじの本名、高谷まさお、昭和21年生れ)これでチヌを釣って来い。
あそこに『国鉄』がいるから」。
釣りは、子供の時から好きだったが、チヌはまだ釣ったことはなかった。
『国鉄』とは、館長の友人で、釣り好きの国鉄OB、宇田さんのこと。
その日は桂浜の磯でチヌをねらっていた。
釣りの魚は体表の傷が少なく、飼育に適していることのほか、
釣りのノウハウをウダウダと話してくれた。
私の釣りの師である。以後、手が空いたときなど、度々“採集”に出かけた。
釣場で合ふ人々は「これで給料もらえるの?」とうらやましがりながら、
いらない魚を私のバケツに入れてくれた。
しかしその後水族館まで、生かして運ぶには、かなりのエネルギーが必要だった。(昭和46年10月)
「ちょっとここを掘ってくれ」理由もわからず
、濡れた地面を30cmほど掘ると、水が吹き出してきた。
さらに1mちかく掘り下げる。
鉛製の古い水道管の水漏れ場所を確認した館長は、少し考えてから、
ビニールテープと細いビニールホースを持ってきた。
私は業者を呼んで配管ごと取り替えるものと思っていたのに「これで修理しろ」。
云われるままに、ビニールテープを強く引っぱりながら巻き、
次にビニールホースを強く巻きつけ、その上をまたテープで巻く。
こんなことでいいの?と云ふ顔で館長を見ると「土の中なら10年は平気」。
金のかからない、自前の修理法の一例である。(昭和46年10月)
館長の幼なじみの大工さん。
木造モルタル造りの旧水族館を作った人。
私はこの人の最後の弟子だったと思っている。
大工仕事はもちろん、配管、配線、土木工事、コンクリート水槽のガラスの張り換えまで教わった。
師匠の教えは「下準備をしっかりやりなさい」だった。
「素人は仕上がりをいそぐから、途中で不具合が出て、きれいに仕上がらない」
「プロは、準備に時間をかける。仕上がりのイメージ(又は図面)をしっかり、作り上げておくこと」。
工作物でけでなく、お魚の飼育、イベントの開催等にも通じることは、理解している。
しかし、私のいいかげんな性格は、この教えを実行出来ず、現在もなお、失敗と反省をくり返している。(昭和46年秋)
桂浜水族館での“初仕事”まずは掃除。
大先輩のおばちゃんに教わりながら、
ペンギン舎・アシカプール・水鳥池をデッキブラシで洗って回る。
次はお魚の飼育設備の解説をしてもらえる、と思って館長の所へ行くと「ちょっとあっちへ行こう」。
トラックに乗せられて30分ほど、住宅建築現場で「今日はここを手伝ってくれ」。
紹介された棟梁の指示で、材木運び、セメント練り。
大工の助手が私の“初仕事???”
このあとの悩ましい数年間を予感させる“初日”だった。(昭和46年9月)
卒業して最初の就職先は、大阪の魚市場だった。
しかし違和感が強く、悩んでいた。
恩師に相談すると「桂浜水族館からの求人があるが…」私は飛びついた。
面接の時、館長は「4年間毎年、高知大学へ求人を出して、やっと応募者が現れた」と喜んでくれた。
「給料はあまり出せないが公務員(当時の県職員で3万3千円)よりは頑張りたい」とのことだった。
大阪では5万2千円だったが、桂浜は3万5千円。
恩師は「給料は安すぎるし、休み(月3回)も少ない」と、大阪でもう少し頑張るよう耳打ちした。
しかし私は“やってみたい仕事”と思っていたので、心はすでに決まっていた。(昭和46年7月)
エコおやじは、今年60のおじいさん。
孫はまだいなので「おじいさん」と呼ばれたくないですね。
しかし、そろそろ若い者にまかせて、引退を考えねばならない歳になってきた。
そこで、桂浜水族館での35年間をふり返ってみることにした。
遠い記憶を掘り起こしながら、週1回のペースで、綴ってみたいと思っている。
飼育員に夢を託した若者が、エコおやじへと生長?する過程で、
現在では信じられないようなお話がでてくるかも??ご期待下さい。(平成19年2月)