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284 (再)恩人(追加)⑰義母(続き)

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  義母は腰の軽い機転のきく人で、周囲から頼りにされていた。そんな人の娘だから(親を見れば育ちがわかる…)と、ほとんど付き合いもせずに結婚を決めてしまった(後の祭り)。女房は理論派で頭はいいのだが腰が重く身体は動かない。親が先回りして手助けをすると、このようなタイプに育つ人間もいるようなのである。「出来の悪い娘を押し付けるのだから、ちゃんとフォローもしなくちゃ…」と思っていたかは不明だが、子育てでは随分助けられた。イロイロと理屈をこねる女房を「ほらほらシャンシャン動かんと…」と尻をたたいてくれた。長男が熱を出してる時に水族館から呼び出しがあって、女房がグズると「この子は私が見てるからムコ殿は水族館へ…」と云うようなことも何度か。脳出血により67歳の若さでで急死してしまったが、この人無しに私の子育てと水族館人生の両立は、ほぼ不可能だったと思えるのである。
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283 (再)恩人(追加)⑰義母

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  恩人として非常に重要な人物“義母”を追加したい。義母は寿一館長夫人の実家(呉服屋)の店員(番頭格)で、館長夫人が水族館でやるべき事務や雑用の手助けも受け持っていた。そんな関係で館長は義母に「今度うちに若いのが来ることになったので下宿を探してやって」と。義母は手を尽くしたあげく、自分の伯父(元海軍大佐)を説得して私のための間借りを確保してくれた。その後も私にイロイロと世話を焼いてくれた末、出来の悪い娘を押し付けてきたのである(続く)。

282 (再)恩人⑯追加

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  「私の人生の最大の恩人について書いてしまったので、このブログも終了に…」とイラスト係に云ふと「まだ1人忘れていませんか?昔の恋人まで出ているのに奥さんはどうなんですか」と云われた。「女房は空気みたいなもので、恩人と云えるか…」と答えたら「そんなこと云ふ人とは思わなかった。奥さんを恩人と思わないような人を“おとうさん”とは呼べないので嫁候補(76実習生②嫁候補)からはずしてもらいます(マナティーは嫁候補15番)」と云う。仕方ないので女房にも一言。「私の40年余りの水族館人生をまっとう出来たのは、あなたが毎日作ってくれた弁当のおかげです。ありがとう」。

  私の水族館人生は女房の犠牲の上に成り立ってきた。ブツブツと不満は口にしていたが家事・育児は完全にまかせきりだった。これからは女房孝行もしたいと思う。

281 (再)恩人⑮かあちゃん

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  恩人の最後はこの人。私に“人生”なるものを与えてくれた人である。幼少の頃から自然に親しみ、草木や生き物を大切にすることを教えられて育った。しかし思春期には「産んでくれとたのんだ覚えはない」と云って反抗したこともあった。彼女は私を公務員にしたかったようで、高校卒業の時、警察官を奨められて合格していた。しかしほんのちょっとしたまちがいか、それともDNAに書かれてあった運命だったのか、私は別の道へ進んでしまったのである。今、その道の終点(定年退職)を通り過ぎて見返すに、この道もまた彼女が私のために用意した道だったようにも思える。現在95歳になる母が、このブログを読むことは考えられないが、ここでこっそり「かあちゃん産んでくれてありがとう」と云っておきたい。

  母は2021年11月に104年と5ヵ月の天寿をまっとうした。痛い・苦しいも言わず眠るような大往生とのことだった。

280 (再)恩人⑭まさこ

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  “まさこ”が恩人にあたるかどうかは解釈に苦しむのだが…。学生時代から付き合っていて、大阪の魚市場へ就職した頃には結婚したいと思っていた。しかし市場での仕事は1年余りで行きづまりを感じて転職、桂浜にやってきた。ところがこちらの仕事も待遇も思惑とは大きくちがい(⑥飼育員の仕事)とても結婚を言い出せる状況ではなくなった。結婚するならもっと別な仕事を考えねばならない…。悩ましい日々が続いた。そんな時、煮え切らない私に彼女からの最後通牒(⑪天国から地獄)が届いた。その結果、この仕事を続けるかどうかの決断を先送りしたことで、イルカ(⑭イルカ入館⑮300円)やマンボウ(⑯マンボウとの出合)にめぐりあい、水族館人生をまっとうすることになったのである。彼女との結婚を選んで桂浜を離れていたら、どんな人生を送っていたか今となっては想像もつかない。彼女の決断は、結果として私を桂浜に引き止めた。そう考えると彼女は、私と桂浜にとっては恩人と云えるかも…。

  プロポーズさえすれば必ず受けてくれると信じていた“まさこ”だったが…。“逃がした魚は大きい…”。時々自分のふがいなさを思う(そして、これは避けることが出来ない運命だったと自分を慰める)。

  

279 (再)恩人⑬山田先生

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  中学1年の担任は山田耕三先生。 今思えばこの山田先生のひとことが私の人生を決定してしまったような気もする。私は5人兄弟の3番目。2人の兄も弟も、小学生の頃から卓球をしていて、中学では当然のように卓球部に所属していた。しかし私は運動神経が鈍くて、卓球には興味を持てずにいた。その頃の中学では、全員何らかの運動部に入ることになっていた。山田先生の「クラブの決まってない者は手を上げろ」との声に手を上げたのは私1人だけだった。「よし、高谷は水泳部だな」と勝手に決めておいて先生は自分の担当する水泳部員をやっと1人だけ確保出来たことを喜んだ。3年生2人、2年生3人、1年生は私だけの6人の水泳部が、私の水族館人生のスタートだったのかも知れない。大学でお魚の勉強をしたのも、水泳部で鳴門の海を泳ぎまわったことが引き金になった気がする。水族館では水泳部の経験が非常に役立った。と云ふより、水泳部に入ったことが、私を桂浜水族館へと導いていったのにちがいないと思えるのである。

  山田先生による“強制入部”が私の水族館人生のスタートだったと今も考えている。

278 (再)恩人⑫山口先生

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  山口順彦先生との出逢いは、いくつもの偶然(奇跡とも思える)が重なっているので、これはもうDNAに記された運命としか考えられない。高知大に合格したのもほとんど奇跡だったが、私が1年留年しなかったら、山口先生とはすれちがいで、出来の悪い学生を担当しなくて済んでいたのである。先生はそのバカ学生を無理やり卒業させてホッとしていたら、1年ほどして助けを求めてきた。そこでたまたま話があった桂浜水族館の求人(これも運命的な偶然)に、そのバカが飛びついたのである。その先も先生の研究テーマだったオオニベの採集(165定置網漁)や趣味が磯釣りだったことなど、私を桂浜水族館に押し留めておく、大きな力になった。私と桂浜と山口先生は、運命の糸ではっきりと結びつけられていたのは、まちがいないのである。

  磯釣りのお供をしただけでなく、魚の病気や水族館の新築時にイロイロとアドバイスももらった。私の人生の師なのである。

277 (再)恩人⑪山岡先生

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  山岡不二男先生は、漁師の息子とのことで、素潜り漁が得意だった。日本海の荒波できたえられた泳ぎは右に出る者はなく、学生達の尊敬を集めていた。私も泳ぎには自信があったので、度々先生のおさそいを受け、磯遊びをした。しかし太平洋の大波は、私の育った鳴門の海とはケタちがい!。先生の助言がなかったら磯の上を転がされ、ズタズタになっていたかも知れないような事もあった。学生時代の先生の講義については全く記憶に残ってないが、磯遊びや釣りだけでなく、マージャン・囲碁など、ずい分お世話になった。私が失恋した時(⑪天国から地獄・272恩人⑦まさこ)には、徹夜で相談に乗ってくれたこともあった。人生の恩人として、忘れてはならない人なのである。

  新婚の先生宅へ毎晩のように遊びに行って、奥さんに「高谷さん日曜日だけは来ないでね」と言われたこともあった。

276 (再)恩人⑩枝川丸

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  もう1人の釣りの師が枝川丸。この人はタクシードライバーで、釣り場は主に新堤(57釣り採集①チヌⒸ釣り場)だった。宇田丸とちがって大物狙いの枝川丸には、夜釣りを中心にイロイロな釣りを学んだ。チヌはもちろんスズキ・コロダイ・イシダイ・クエなどの他、イセエビ釣りも教わった。この人は釣り場の特徴を知りつくし、季節・場所・時間(潮位)によって狙いを変えシカケを替えていった。釣り場で見かける度にこの人の横に場所を取った。外道をもらえる利点はもちろんだが、この人の理論と技術は、そばにいるだけでずい分勉強になった。しかしこの人から学べたのは2年足らず、突然「遠くへ引っ越すから、もうここには来られない」との言葉を残し、桂浜の新堤から姿が見えなくなってしまったのである。

  この人に教わった夜釣りに行って死にかけた(12死神のリスト)こともあった。

275 (再)恩人⑨宇田丸

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  宇田丸は寿一館長の友人で私の釣りの師匠である。入社間もなく館長命令で弟子入り(⑤釣り採集)した。国鉄(当時)の運転手とのことだったが、休日にはもっぱら桂浜でチヌ釣り。これはほとんど副業で、500g以上のチヌは料理屋に持ち込んで小遣いにしていた。しかし小型のチヌや外道(狙い以外の魚)は、水族館用に生かしておいてくれていた。館長は宇田丸が竜宮(57釣り採集①チヌⒸ釣り場)で竿を出しているのを見かけると「チヌを釣って来い」と私をさし向けた。私は宇田丸が生かしておいてくれた小魚を運びながら、エサや道具を運ぶ手伝いをしながら、並んで竿を出しながら、チヌ釣りを教えてもらった。シカケや竿など技術的なことは十分に学んだと思っているが、この人の口癖の「釣りはガマン」については、私の性格もあって、全く身につかなかった。

  海釣りはチヌに始まりチヌに終わる「チヌはノッコミ(春の産卵期)にはバカ喰いするが、水温の低い冬場は微妙なウキの動きを見逃すな…」。これもこの人の口癖。

274 (再)恩人⑧轟丸

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  室戸岬の東側に三津と云ふ小さな漁港がある。轟丸はこの地区の沖に設置された大敷網漁の船である。私の水族館人生は、この轟丸なしには考えられない。昭和48年10月に、この漁港に大敷網で獲れたバンドウイルカが住みついた(⑭イルカ入館)。それが縁で以来38年間、魚類の採集基地としてここに通い続けている。先長(船長)のH中さん・副先長のタカノリさん・クボさん・オノさん、組合長のK田さん。それから漁協のK下さん・M沢さん・アキラさん。その他、大勢のみなさんが私を“イオオイ(166大敷網漁②イオオイ)”と呼んでかわいがってくれた。その恩人の方々もすでに引退。現在では私が三津大敷の最古参になってしまっている。船方がすっかり若い世代に代替わりしてしまった轟丸に、今も私は通い続け、お世話になり続け(254大敷網漁⑨バンドウ)ているのである。

  昨年10月でちょうど50年。木造からFRP船に変わった“轟丸”に半世紀を過ぎた今も乗り続けている。

273 (再)恩人⑦昌(さかん)館長

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  この人は寿一館長の弟で、昭和59年の桂浜水族館の新築をきっかけに寿一さんから館長を引き継いだ。それまではプラスチック工芸の会社を経営し、アクリル製の水槽を作ってレストランなどに納めたりもしていた。だから設置の際には、海水や魚を入れる手伝いをさせられていた関係で、人物はよく知っていた。非常に慎重な人で、物事の決定に時間がかかった。他に選択の余地など全くないような事でも、2時間・3時間と繰返して考える。この人と話しをしているとイライラするばかり(45館長代理)だった。そのために衝突することも多く、ストレスがたまった記憶がある。しかしその昌館長が引退してから、私はこの人の影響を大きく受けていることに気付かされた。「もうちょっと考えてから事をおこせ」「あとひと押ししたら、いいアイディアが生まれるかも…」と30年ほど前に、この人から聞かされた言葉をそっくりそのまま若い“O”に話している自分がここにいるのである。

  新築工事はこの人と私で進めたが工程の遅れを気にする業者から「高谷さん何とかしてよ…」と泣きつかれた(47新築工事⑥内緒でGO)ことも度々あった。   

272 (再)恩人⑥サミーデビスジュニヤ

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  植木や盆栽が趣味の寿一館長は、庭木作りが得意なサミー・デビスジュニアそっくり(日焼けした顔に、ギョロ目)のお百姓さんと組んで、近場の山などからヤマモモやアオキ(クロガネモチ)の木を掘り出しては、自分の畑に移植していた。私は度々その手伝いをさせられた(⑥飼育員の仕事)のである。その関係でこの人からチェーンブロックを使っての、大きな庭石の移動などを含め、植木屋さんのノウハウを学んだ。中でも印象に残っているのが、山道のブランコ通過である。細い山道が数日前の雨に流されて50cmほどエグられていた。あきらめて引き返すのかと思ったら、ロープを持ち出し斜面上の太い木の枝に結び、トラックの片側に結びつけた。なんとブランコの要領で片輪を宙に浮かせて通りぬけてしまったのである。感心している私に「高谷君、道具さえあれば不可能はないよ。頭とウデはこんな時に使うんだ」と聞かされたように記憶している。

  この人の助手で、半世紀前に山から掘り出したヤマモモやクロマツは、今も水族館で葉を茂らせている。

  

271 (再)恩人⑤浪やん

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  浪やんは寿一館長の一の子分を自認していた。水族館のすぐ近くに住んでいて、水道関係の仕事をしていたので、ポンプや水廻りに精通した人だった。旧水族館時代のポンプ類は、すべてこの人がボランティアでめんどうを見ていた。私はこの人に付いて、配管や接続を含めてポンプについての知識を学んだ。カップリングのスリ合わせやグランドパッキンの押し込みなど、理論は十分理解したつもりだが、技術的なことについては私のいいかげんな性格もあって、まだまだこの人のレベルにとどかない。それともう1つ、この人からは道具や機械を修理しながら大切に使う、もったいない(⑧もったいないの原点)の心を教え込まれたと思っている。

  朝出勤すると機械室でカンカン音がする。見ると「夜中に館長に呼ばれた…」と浪やんがポンプを組み立ていたこともあった。

270 (再)恩人④松ちゃん

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   旧水族館時代の一番大きな機械は、15KWの圧縮ポンプの付いたアイスキャンデー製造機だった。昭和30年頃に、中古のアンモニアガス式冷凍機を入れたとのことだった。他にダツトサンのエンジンを使った非常用ポンプと50KWの非常用発電機があった。松ちゃんは、この3つの機械と電気の係だった。発電機はガバナ(回転数調整機)の調整を教わった。ダツトサンのエンジンは、私が夜番をしていて焼け着かせてしまったのを分解修理してもらった。アイスの機械は「アンモニアガスは扱いが微妙だから」と私にはさわらせてくれなかったが電気配線については、この人からたくさんのことを学ぶことが出来たのである。

  旧館時代の電気配線は裸電線を使っている所もあり、今では絶対に有り得ないような、危険な所もあった。

269 (再)恩人③スエやん

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  大工のスエやん(③師匠の教え)は寿一館長のおさななじみで、旧水族館の補修の一切をまかされていた人である。私は入社初日(②初日)に、この人に弟子入りさせられた。この人と共にオンボロ水族館の屋根に上り、40年余りの潮風に痛めつけられた、トタン板や外観を修理した。コンクリート水槽の、ガラスの張り替えを手伝ったこともある。館長の性格を知りぬいていたスエやんは「館長がイロイロうるさい注文をつけてきたら、その場はハイハイと聞いておけ。あとで自分の思ったとおりの細工をしておけばいい」と云ふようなウラ技も教えてくれた。ノコギリやカンナがけの技術については、私の性格もあって上達しなかったが、いろんな場面での“大工さん的”な考え方や発想は、かなり勉強させてもらったと思っている。

  私はスエやんの最後の弟子。彼が引退する時、使い込んだノミやカンナ引き取らせてもらった。

268 (再)恩人②冴子夫人

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  私が入社するまで寿一館長の冴子夫人は、魚類の説明板を担当していた。やさしいタッチの水彩画(ちぃさな浜辺の水族館のなんちゃって課長30~37・174~181)で、簡単な解説がついていた。入社して間もなく「これからは説明板をまかせます。もっと学術的なことも入れて作って下さい」と云われた。私は絵心が全くないのでこれには困った。イラストが得意な後輩のM(なんちゃって課長)が入社するまでに2・3枚だけ作った覚えがある。その後夫人は私をおかかえ運転手にして、自分の趣味の“能”に没頭していた。若くして亡くなったが私を可愛がってくれて、イヤがる館長を説得して私の仲人を引き受けてくれたのである。

  寿一館長はプリンスグロリアに乗っていたが、冴子夫人は私を運転手に、ボロボロの軽トラックでお出かけしていた。

267 (再)恩人①寿一館長

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  「浦戸大橋の開通に合わせて水族館を新築するので、是非とも来て欲しい」との寿一館長の言葉(① 面接)につられて入社したが、新築までは13年も待たされた。しかし今思えば、その13年間が私を育ててくれたようである。館長は自分の趣味(と云うより道楽)の植木(⑥ 飼育員の仕事)や庭石の移動を手伝わせ、築40年を過ぎたボロボロの本館を修理させ、電気・ポンプの修理も指示した。私はお魚の飼育はそっちのけで、このような雑用をこなし続けたのである。何度も辞めようと思ったが、そんな私を見越して「スマンがもうちょっと頑張ってくれ。新築したら雑用はなくなるから」と新築の遅れを申し訳なさそうに云ふ寿一館長を信頼して、ついてきたおかげで現在があると思えるようになってきている。

  当初は寿一館長に召し使いのように扱われて非常に不満だったが、時間と共に性格もわかり、この人に育てられたと思うようになってきたのである。  

266 (再)恩人(序)

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  ネタ切れで「もうこのブログは終了にしたい」と云う私をイラスト係が「まだまだダメです」と、許してくれない。しかたなく無理やり絞り出したのが、今回の“恩人シリーズ”である。桂浜に来て40年余り。思い返せば数多くの人々から学びながら、支えられながらの“水族館人生”だった。このページの最初の頃に登場した人々を含め、その恩人達の一部を紹介してみたい。かなり失礼な表現があるかも知れないが、すべては遠い昔(30年以上前)のお話である。御本人(御遺族を含め)の目に止ることはあるまいと思って好き勝手に書く予定だが、もしもの時は「ごめんなさい」。

  登場する15人(一組は除く)のうち、生存を確認出来ているのは4人だけである。
プロフィール     ロリコンのおじん

もったいないおやじ

Author:もったいないおやじ
桂浜水族館を縁の下から支えて半世紀。

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